2017年01月10日
日本美術応援団 (赤瀬川原平、山下裕二)を読んだ
美術家・作家の赤瀬川原平、美術評論家の山下裕二という二人の美術好きが、雪舟、等伯、若冲から、縄文土器、装飾古墳など、一回毎にテーマを決めて作品を鑑賞し、自由に語り尽くしている雑誌連載を纏めた対談本。
1996年からの雑誌連載を纏め2000年に発行された本なので20年以上前の対談なのだが、古さを全く感じずに読むことができた。
美術館に行っても、基本的な知識が無いために作品を鑑賞するときのポイントがわからなく、何を見ていいんだかわからない状態になることががある。かといって、美術ガイド本を読んで「予習」して作品を見ると、「勉強」した箇所ばかり目に付いたりして、それもどうかなと思う。
本来は、その作品についての既成概念にとらわれずに、その時の自分に見えたまま感じたまま、素直に鑑賞するのが良いのだろうけど、どうしても知識欲のようなものが邪魔して素直になりきれず、なかなか難しかったりする。そして、技術的な専門知識についての解説を受けたり、その作品がどう評価されてきて今ここに存在するのかという経緯を知ったりした上での鑑賞は楽しいものだ。
既に知識を持ってしまっているためにそれが邪魔してしまうこともあるだろうし、事前知識を持たずに作品に触れることについて、この本の中でも二人が触れている。
山下「だから僕も戻れるものなら、禅とか哲学とか日本美術とかそんなもの何もない状態で、あそこにポンと行けたらと思いますねえ。」
赤瀬川「そう、ポンとね。」
(テツガクしない石庭の見方)
要は、正解はなく、人それぞれ、自分なりの鑑賞の流儀を身につけ、それぞれに楽しめれば良いのだろうけど。
この本の楽しさは、美術品に対して関わってきた経験・知識を持つ二人が、あくまでも自分の目で見ての感想を、常識的な評価とは関係なく飾り無く素直に語り合っていること。一流の「目利き」である赤瀬川との放言に専門的な知見で裏付ける山下の掛け合いが絶品の一冊である。こんな風に作品を鑑賞でき語り合うことができたら、どんなに楽しいかと思う。
紹介された美術品の中にはいくつか見ているものがある(逆に、全く知らなかったのは、九州地方に広く存在するという装飾古墳群)のだが、それらも含め、順番に見に行きたくなった。
まずは、この二人の対談本は他にもあるので、それも手に入れ読むことにしよう。楽しみだ。
近所のブックオフで2017/1/1に購入(408円)、読了:2017/1/7
赤瀬川との対談はもうできないので、続編には井浦新が登場している。
2017年01月04日
神様2011 (川上弘美)を読んだ
2017年1月1日読了、今年の読書、最初の一冊は、川上弘美の神様 2011にした。
1994年にパスカル短編文学新人賞を受賞した神様 (中公文庫)は、文庫本で10ページほどの短編。
近所に引っ越してきた「くま」に誘われピクニックをして過ごした一日について綴った小品で、宮沢賢治の童話の雰囲気にも似ている。絵本として出版されてもいいような作品だが、出版されていないのだろうか。
「神様2011」は、そのデビュー作の舞台を2011年に移し、リライトした作品。
言うまでもないが、2011年は東日本大震災があった年で、本作では、作中「あのこと」と書かれる原発事故後が舞台となっている。そして、リライトの範囲は、舞台が原発事故後の放射能に汚染された環境であることに限られ、主人公である「わたし」と「くま」がピクニックに出かけ、魚を獲って帰ってくるというストーリーに違いは無い。途中で出会う人が旧作では家族連れであったのが新作では大人だけだったり、話す話題がセシウムや被曝線量のことであったり、ディテールが異なるだけである。
書き直されたこのファンタジーの中で「くま」と「わたし」の過ごす一日は放射能汚染の中での一日で、それは旧作でそうであったように、本作の「くま」と「わたし」にとってごくごく普通の日常なのである。
今、現実に2017年の日本、福島に生活するということは、このファンタジーの中での「くま」と「わたし」のように、それを特別なこととしてではなく、日常そこにあるという当然のこととして放射能汚染と付き合い、暮らして行くということであるのだろう。
講談社から出版された「神様2011」は、50ページに満たないハードカバーの小さな本だが、神様、神様2011、あとがきで構成されている。
神様、神様2011の2作品を続けて比較して読むことで、ファンタジーを浸食してきた引き返しのできない現実にげんなりせざるを得ないが、あとがきに原発事故についての著者の怒りと共に記される「それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きてゆく」のことばのとおり、世界がどのようになってしまおうと、私たちにはその世界の中で過ごす日常こそがリアルに大切なものなのである。
1994年にパスカル短編文学新人賞を受賞した神様 (中公文庫)は、文庫本で10ページほどの短編。
近所に引っ越してきた「くま」に誘われピクニックをして過ごした一日について綴った小品で、宮沢賢治の童話の雰囲気にも似ている。絵本として出版されてもいいような作品だが、出版されていないのだろうか。
「神様2011」は、そのデビュー作の舞台を2011年に移し、リライトした作品。
言うまでもないが、2011年は東日本大震災があった年で、本作では、作中「あのこと」と書かれる原発事故後が舞台となっている。そして、リライトの範囲は、舞台が原発事故後の放射能に汚染された環境であることに限られ、主人公である「わたし」と「くま」がピクニックに出かけ、魚を獲って帰ってくるというストーリーに違いは無い。途中で出会う人が旧作では家族連れであったのが新作では大人だけだったり、話す話題がセシウムや被曝線量のことであったり、ディテールが異なるだけである。
書き直されたこのファンタジーの中で「くま」と「わたし」の過ごす一日は放射能汚染の中での一日で、それは旧作でそうであったように、本作の「くま」と「わたし」にとってごくごく普通の日常なのである。
今、現実に2017年の日本、福島に生活するということは、このファンタジーの中での「くま」と「わたし」のように、それを特別なこととしてではなく、日常そこにあるという当然のこととして放射能汚染と付き合い、暮らして行くということであるのだろう。
講談社から出版された「神様2011」は、50ページに満たないハードカバーの小さな本だが、神様、神様2011、あとがきで構成されている。
神様、神様2011の2作品を続けて比較して読むことで、ファンタジーを浸食してきた引き返しのできない現実にげんなりせざるを得ないが、あとがきに原発事故についての著者の怒りと共に記される「それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きてゆく」のことばのとおり、世界がどのようになってしまおうと、私たちにはその世界の中で過ごす日常こそがリアルに大切なものなのである。